玉川上水―5 喜平橋~三鷹・けやき橋
2015年 03月 24日
2015.03.24
「玉川上水を歩いて」5回目です。
喜平橋
小桜橋
南側一帯は山桜が今も健在。
茜屋橋
明治初期まで付近で栽培された染料用の茜の元締め「茜屋」が橋の袂にあった。
貫井橋
上水記にも名のある古橋。鈴木新田開拓当時の名主利左衛門が、新田に通う木橋をかけた。
小金井橋
古くは「金井橋」と書かれ上水記にも名のある古い橋。
この橋名は付近に武蔵七井の一つである名水「黄金井」があったことによるという。
玉川上水現役最古の橋。
「名勝小金井桜」標示碑
大正13年(1924)、「名勝」として国から指定を受けたこと標示する碑。
名勝境界は、一橋大学小平分校脇の「商大橋」から「境橋」までである。
陣屋橋
上水北側の関野新田に幕府の陣屋(役宅)が置かれ、この陣屋から南に真っ直ぐ小金井村方面に通じる道が「陣屋道」、玉川上水にかかる橋が「陣屋橋」です。
新小金井橋
睦橋
関野橋
寛政3年(1791)幕府普請奉行によって編纂された「上水記」に記載されている橋。享保9年(1724)下小金井村の名主関野勘右衛門が玉川上水の北側を開拓、その名に因んで「関野橋」と名づけた。
梶野橋
新橋
旧千川上水分水口跡
下流250m左岸に昭和41年(1966)まで使われた分水口の分水堤や水門,堰、ゲート巻揚機が残る。
曙橋
くぬぎ橋
もみじ橋
境橋
千川上水
境橋の処で千川上水の取り入れ口を見ることが出来る。
境橋で玉川上水から分水して、武蔵野市と保谷市の境を東流、練馬区の南端部を経て、豊島区西巣鴨3丁目にある巣鴨庚申塚の溜池に至る用水路。
今の千川上水の分水口はそのすぐ下で、上水添いの道路の下を通って、五日市街道に沿って流れている。千川上水はこれから数100メートルの井之頭通りと交差するところまでは旧の姿を残しているが、その先は狭く舗装された川筋となって武蔵野市の東を流れ、青梅街道を超えると、上は道路になる。
千川上水は元禄9年(1696)五代将軍徳川綱吉が小石川御殿、湯島聖堂、上野寛永寺、浅草寺への給水を目的に造らせたと云われる。その後江戸市民の飲料水として、また、近隣農村の農業用水として利用され、使用の中止と復活を繰り返してきた。1971年北区王子の大蔵省印刷局への送水停止を以って使命を終えた。1989清流復活事業により、一部区間玉川上水からの処理水が流れる。
うど橋
江戸時代、今から180年位前から、この辺りで落ち葉の温熱で軟化うどが栽培された。
この辺りが東京独活の主産地なので、これを記念して名づけられた
独歩橋
桜橋
国木田独歩文学碑
桜橋畔に武蔵野を世に広く紹介した国木田独歩の名作「武蔵野」の一節を刻んだ国木田独歩文学碑がある。昭和32年に武蔵野保存会(柳田国男・亀井勝一郎・野田宇太郎ら)が中心となって建てられたもの。
なお、武者小路実篤書による独歩の詩碑「山林に自由存す」は、三鷹駅北口の交番横にある。
境浄水場
近代水道としての「淀橋浄水場」が明治31年に通水するが、明治末期には早くも水道施設の拡張が必要になった。大正元年、村山貯水池・境浄水場・和田掘浄水池の拡張寺号が認可され、境浄水場は、大正13年に通水した。
多摩川から取水された原水を村山・山口貯水池(多摩湖・狭山湖)にいったん貯留し、地下導水管により自然流下式で導かれた多摩川の原水を東京水道では数少ない、緩速(砂)濾過法で浄水し、和田堀給水所へ送る。
境浄水場から玉川上水への余水吐口がいくつか見られる。
境浄水場南門の玉川上水両サイドに見られる橋梁跡は、境浄水場への引込線跡で、また、浄水場はずれの遊歩道に見られる橋梁跡は、戦闘機の「隼」や「零戦」を生産した中島飛行機(株)への引込線跡である。
品川分水
境浄水場の反対岸に、品川分水(戸越分水とも言う)の取り入れ口跡を見ることが出来る。
往時の面影を最も色濃く残しているのが、この分水口跡であろう。
品川分水は、品川領戸越の肥後熊本54万石、細川家下屋敷の泉水用に寛文9年(1669)に開削されたとの説があり、後に品川宿、大井村、戸越村、大崎村などに給水されることになったという。
武蔵野市立第六中学校の北西側から校庭を斜めに横断してゴルフ練習場南側の道路に沿って南東流して、三鷹駅南口から約150m南に寄った桜通りへと流路がのびていた。この桜通りの下に旧用水が流れていた。
1948年に通水は停止した。
松美橋
みどり橋跡
境浄水場建設の時、武蔵境駅から浄水場まで東京市水道局境浄水場線が敷かれた。建設資材やろ過用の砂の運搬に利用されていた。廃線後線路敷きの一部が木村公園となっている。又戦前現在の武蔵野中央公園付近にあった軍需工場へ物資運搬用専用線が引かれた。廃線後グリンパーク遊歩道。堀合遊歩道として整備されている。
大橋
1788年ごろに記された上水記に「保谷橋・境新田石橋共云」とその名があり江戸時代から架けられた歴史ある古い橋。大橋を通る大師道は武蔵野市と三鷹市の境界をなし、狭い道であるが南へは深大寺・甲州街道・調布五宿に続き、また西北方向は田無を経て青梅街道や所沢街道へ続く便道であった。1918年境浄水場の建設で大師道が分断され、この橋の意義が著しく低下した。
大師道
調布市の深大寺には、関東で最も古いと言われる白鳳仏があるので有名であるが、もとはこの仏像は同寺の元三(がんさん)大師堂に収められていたものである。天台宗の僧良源(慈恵大師)が寛和元年(985)正月3日になくなったので元三大師というのであるが、この大師の信仰は深く、諸方からの参拝者が多かった。深大寺へ行く道は俗に大師道と言われた。
保谷市と田無市の境界となっている道が武蔵野女子学院の脇から五日市街道に出て武蔵野市内に入り、東に少し進むと左に御門訴事件の碑、右に榎本園芸店がある。これが大師道であるが、もう一筋は保谷市の東伏見神社の横から千川上水を超えて武蔵野市に入る道である。八幡町4丁目の住宅地の間を通り、八幡町コミュニティセンターを左に千川小学校を右に見て進むと、御門訴事件の碑の横に出る。途中に「大師道り」という標識もある。
ここで先の女子学院横から来た道と1つなって、五日市街道を渡り、関前2丁目に入り、関前南小学校の南を通り、五中とゴルフ場の間から井之頭通りに出るが、大師道はここで浄水場で断ち切られる。
浄水場の南に廻って大橋の所で古い道につながる。
橋を渡ると庚申塔と稲荷の小祠がある。JR中央線を越えて、塚で境南町と離れて深大寺に向かうのである。
けやき橋
三鷹駅の西側中央通りに架けられた橋であることと、この橋の前後が暗渠になっているため橋の面影はほとんどない。橋を挟んで暗渠上は、「玉川上水緑道公園」になっている。この区間上部は「人工のせせらぎ」、下部の暗渠に「本流」という重層的流れになっている。
もともとは安政年間(1854~1859)の架橋といわれ、当時は欅の丸太をかけるだけの橋であったので、その橋の名が付けられたといわれている。
「玉川上水を歩いて」5回目です。
喜平橋
小桜橋
南側一帯は山桜が今も健在。
茜屋橋
明治初期まで付近で栽培された染料用の茜の元締め「茜屋」が橋の袂にあった。
貫井橋
上水記にも名のある古橋。鈴木新田開拓当時の名主利左衛門が、新田に通う木橋をかけた。
小金井橋
古くは「金井橋」と書かれ上水記にも名のある古い橋。
この橋名は付近に武蔵七井の一つである名水「黄金井」があったことによるという。
玉川上水現役最古の橋。
「名勝小金井桜」標示碑
大正13年(1924)、「名勝」として国から指定を受けたこと標示する碑。
名勝境界は、一橋大学小平分校脇の「商大橋」から「境橋」までである。
陣屋橋
上水北側の関野新田に幕府の陣屋(役宅)が置かれ、この陣屋から南に真っ直ぐ小金井村方面に通じる道が「陣屋道」、玉川上水にかかる橋が「陣屋橋」です。
新小金井橋
睦橋
関野橋
寛政3年(1791)幕府普請奉行によって編纂された「上水記」に記載されている橋。享保9年(1724)下小金井村の名主関野勘右衛門が玉川上水の北側を開拓、その名に因んで「関野橋」と名づけた。
梶野橋
新橋
旧千川上水分水口跡
下流250m左岸に昭和41年(1966)まで使われた分水口の分水堤や水門,堰、ゲート巻揚機が残る。
曙橋
くぬぎ橋
もみじ橋
境橋
千川上水
境橋の処で千川上水の取り入れ口を見ることが出来る。
境橋で玉川上水から分水して、武蔵野市と保谷市の境を東流、練馬区の南端部を経て、豊島区西巣鴨3丁目にある巣鴨庚申塚の溜池に至る用水路。
今の千川上水の分水口はそのすぐ下で、上水添いの道路の下を通って、五日市街道に沿って流れている。千川上水はこれから数100メートルの井之頭通りと交差するところまでは旧の姿を残しているが、その先は狭く舗装された川筋となって武蔵野市の東を流れ、青梅街道を超えると、上は道路になる。
千川上水は元禄9年(1696)五代将軍徳川綱吉が小石川御殿、湯島聖堂、上野寛永寺、浅草寺への給水を目的に造らせたと云われる。その後江戸市民の飲料水として、また、近隣農村の農業用水として利用され、使用の中止と復活を繰り返してきた。1971年北区王子の大蔵省印刷局への送水停止を以って使命を終えた。1989清流復活事業により、一部区間玉川上水からの処理水が流れる。
うど橋
江戸時代、今から180年位前から、この辺りで落ち葉の温熱で軟化うどが栽培された。
この辺りが東京独活の主産地なので、これを記念して名づけられた
独歩橋
桜橋
国木田独歩文学碑
桜橋畔に武蔵野を世に広く紹介した国木田独歩の名作「武蔵野」の一節を刻んだ国木田独歩文学碑がある。昭和32年に武蔵野保存会(柳田国男・亀井勝一郎・野田宇太郎ら)が中心となって建てられたもの。
なお、武者小路実篤書による独歩の詩碑「山林に自由存す」は、三鷹駅北口の交番横にある。
境浄水場
近代水道としての「淀橋浄水場」が明治31年に通水するが、明治末期には早くも水道施設の拡張が必要になった。大正元年、村山貯水池・境浄水場・和田掘浄水池の拡張寺号が認可され、境浄水場は、大正13年に通水した。
多摩川から取水された原水を村山・山口貯水池(多摩湖・狭山湖)にいったん貯留し、地下導水管により自然流下式で導かれた多摩川の原水を東京水道では数少ない、緩速(砂)濾過法で浄水し、和田堀給水所へ送る。
境浄水場から玉川上水への余水吐口がいくつか見られる。
境浄水場南門の玉川上水両サイドに見られる橋梁跡は、境浄水場への引込線跡で、また、浄水場はずれの遊歩道に見られる橋梁跡は、戦闘機の「隼」や「零戦」を生産した中島飛行機(株)への引込線跡である。
品川分水
境浄水場の反対岸に、品川分水(戸越分水とも言う)の取り入れ口跡を見ることが出来る。
往時の面影を最も色濃く残しているのが、この分水口跡であろう。
品川分水は、品川領戸越の肥後熊本54万石、細川家下屋敷の泉水用に寛文9年(1669)に開削されたとの説があり、後に品川宿、大井村、戸越村、大崎村などに給水されることになったという。
武蔵野市立第六中学校の北西側から校庭を斜めに横断してゴルフ練習場南側の道路に沿って南東流して、三鷹駅南口から約150m南に寄った桜通りへと流路がのびていた。この桜通りの下に旧用水が流れていた。
1948年に通水は停止した。
松美橋
みどり橋跡
境浄水場建設の時、武蔵境駅から浄水場まで東京市水道局境浄水場線が敷かれた。建設資材やろ過用の砂の運搬に利用されていた。廃線後線路敷きの一部が木村公園となっている。又戦前現在の武蔵野中央公園付近にあった軍需工場へ物資運搬用専用線が引かれた。廃線後グリンパーク遊歩道。堀合遊歩道として整備されている。
大橋
1788年ごろに記された上水記に「保谷橋・境新田石橋共云」とその名があり江戸時代から架けられた歴史ある古い橋。大橋を通る大師道は武蔵野市と三鷹市の境界をなし、狭い道であるが南へは深大寺・甲州街道・調布五宿に続き、また西北方向は田無を経て青梅街道や所沢街道へ続く便道であった。1918年境浄水場の建設で大師道が分断され、この橋の意義が著しく低下した。
大師道
調布市の深大寺には、関東で最も古いと言われる白鳳仏があるので有名であるが、もとはこの仏像は同寺の元三(がんさん)大師堂に収められていたものである。天台宗の僧良源(慈恵大師)が寛和元年(985)正月3日になくなったので元三大師というのであるが、この大師の信仰は深く、諸方からの参拝者が多かった。深大寺へ行く道は俗に大師道と言われた。
保谷市と田無市の境界となっている道が武蔵野女子学院の脇から五日市街道に出て武蔵野市内に入り、東に少し進むと左に御門訴事件の碑、右に榎本園芸店がある。これが大師道であるが、もう一筋は保谷市の東伏見神社の横から千川上水を超えて武蔵野市に入る道である。八幡町4丁目の住宅地の間を通り、八幡町コミュニティセンターを左に千川小学校を右に見て進むと、御門訴事件の碑の横に出る。途中に「大師道り」という標識もある。
ここで先の女子学院横から来た道と1つなって、五日市街道を渡り、関前2丁目に入り、関前南小学校の南を通り、五中とゴルフ場の間から井之頭通りに出るが、大師道はここで浄水場で断ち切られる。
浄水場の南に廻って大橋の所で古い道につながる。
橋を渡ると庚申塔と稲荷の小祠がある。JR中央線を越えて、塚で境南町と離れて深大寺に向かうのである。
けやき橋
三鷹駅の西側中央通りに架けられた橋であることと、この橋の前後が暗渠になっているため橋の面影はほとんどない。橋を挟んで暗渠上は、「玉川上水緑道公園」になっている。この区間上部は「人工のせせらぎ」、下部の暗渠に「本流」という重層的流れになっている。
もともとは安政年間(1854~1859)の架橋といわれ、当時は欅の丸太をかけるだけの橋であったので、その橋の名が付けられたといわれている。
by pgek1207
| 2015-03-24 05:07